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歐慶祥

Author:歐慶祥
(中文名は台湾の友人に名付けてもらいました)



Models:WW2を中心にAFV中心ですが、ストックがたくさんある積みモデラー。なんだかんだでドイツ戦車が多いです。最近は英軍戦車と歩兵の情景も作りたいと思案中。 艦船や航空機にもちょっかいだしてます。



Military:ちょくちょく軍装品集めてましたが、黒歴史化して放置したり処分したりで退却中。 たまにWW2中華民国軍をいろいろ(余波で英軍、現用台湾も)調べてはいます。




記事は筆者の知識不足もあり、随時加筆修正しています。お気づきの点ありましたら、指摘して下さると幸いです。

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フランス編その10 ノルマンディーの戦史跡4 ゴールドビーチからジュノービーチへ

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 オマハビーチからさらに東へ進みます。




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 古い石造りの教会
 当時もこのように佇んでいたのでしょうか。




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 オマハビーチの東隣の地区、英軍が上陸を仕掛けたゴールドビーチに到着します。




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 上陸作戦に参加した英第50歩兵師団は、ドイツ軍の第一陣を突破した後は比較的スムーズにビーチを制圧することができました。
 この点は、防備が固くミスが相次いだオマハビーチで米軍が多くの犠牲を出したのと対照的でした。





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 沖合に見えるのは人口のポンツーン港であるマルベリーB
 ドイツ軍の守りが堅い港を直接攻撃することを避けるため、代わりにこのような組み立て式の港が用意されました。

 オマハビーチにもマルベリーAと呼ばれる同じ人口港が設置されましたが、こちらは上陸二週間で嵐により破壊されてしまいます。
 一方でゴールドビーチのマルベリーBは修復しながら使用が続けられました。


 さらに沖合には廃船を自沈させて即席の防波堤を作っていたのですが、今ではその姿は見えません。











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 ゴールドビーチを見下ろすように設置されたモニュメント
 



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 一部ドイツ軍の陣地跡が残っています。




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 予習も兼ねて基本書は読んでおりました笑





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 続けてさらに東隣のジュノービーチに到着しました。

 こちらはカナダ軍が攻撃を担当した地区で、「カナディアンビーチ」とも呼ばれました。

 ジュノービーチはノルマンディーではオマハビーチに次いで防備の硬い地区で、カナダ軍は苦戦しつつも制圧し、そのまま前進してカーン・バイユー間の幹線道路の制圧に成功します。
 当初の作戦目標を完遂できたのは、ノルマンディーではカナダ軍くらいのものだったと言われています。




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 浜に展示されていたチャーチルAVRE
 チャーチル歩兵戦車にバンカー破砕用の280mm臼砲を搭載した特別仕様車です。





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 25ポンド砲らしき火砲などもありましたが、悪天候のためか幌がかけられていました。




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 コンクリート製対戦車障害物

 



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 半地下式のバンカー

 天井に視察窓がついています。
 (先のコーネリアス・ライアンの『史上最大の作戦』にあったソード・ビーチのエピソードで、扉が白くなるほど火炎放射器であぶられ、窒息しそうになるまでドイツ兵や東方義勇兵が立てこもっていたバンカーは、もしかしたらこのような型のバンカーだったのかもしれません。)




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 この型の半地下式のバンカーには機関銃が据えられていたようです。



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 小ぶりな記念館もあり、土産物もあります。



 ツアーではユタとソードビーチは回らなかったので、そのままパリへ帰還。


 途中、パリへ戻る高速のサービスエリアで休憩中、日本人客を大量に載せた別のバスが到着。
 ノルマンディー上陸作戦の舞台は、観光地として有名なモンサンミシェルの東にあるので、モンサンミシェル帰りの団体客だったようです。

 それを目にしたフランス人ガイドのおばさんに「日本人ってモンサンミシェルが好きよねぇ あなたは逆に珍しいわ」と言われたのを覚えています。




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 パリで最後の晩餐、最後にデザートとして本場のクレープを食べることに。




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 ピラミッド駅前のジャンヌ・ダルク像の近くにあるレストランでした。

 そういえばこのジャンヌ・ダルク像、フランスのコメディ映画『アデル・ファラオと復活の秘薬』で、ジャンヌ像に卑猥な言葉をかけながら立ちションをするシーンに出てきた場所だと思います。




 長々と書いてきた英仏卒業旅行の記事もこれで締めたいと思います。
 とても楽しい旅でした。


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フランス編その9 ノルマンディーの戦史跡3 オマハビーチとコルヴィル

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オック岬から東へ10キロほど
牧草地帯が続きます




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 オマハビーチにやってきました。

 ノルマンディーで最も堅固に防備されていた地区で、また駐屯していたドイツ軍の第352歩兵師団も比較的装備・練度が整った部隊であり、連合軍側のミスも重なり結果として上陸した米軍に多くの損害を与えました。






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 あいにく天候が悪いため、ビーチに下車することはできませんでした。

 オマハビーチというとスピルバーグのSPRのイメージが強いだけに、映画のやや彩度を落とした映像に見慣れてしまった自分にとっては、実際にはこのようなやや明るい砂色をしていたのが印象的でした。(もっともSPRの撮影地はアイルランドですが)




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 現在は住宅街になっている場所でも、背後にある崖には今でもドイツ軍のトーチカが残っています。




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 オマハビーチは断崖の上からも俯角を取れるように地形が造成され、また断崖にたどりつくまでに遮蔽物の少ない砂州を200ヤード突っ切る必要がありました。



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オマハにあったパンツァーターレット6基のうちの1基



オマハのドイツ軍の戦力は

兵力 7,800
 砲兵用バンカー 8
 機関銃陣地 85
 トーチカ 35
 トーチカ(戦車砲塔) 6
 野砲 4
 迫撃砲陣地 6
 対戦車砲 18
 ネーベルヴェルファー陣地 45
 その他機雷・障害物多数

というものでした。

 



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 オマハビーチの崖を登るように道を進みます。




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 訪れたのはコルヴィルの米軍墓地です。





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 ユダヤ教の墓碑もあります。
(SPRでは監督の意向を感じさせるようなアングルで映っていましたが)







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 SPRの冒頭で例の老人と家族が歩いていた道






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 コルヴィルの墓地はオマハビーチが見下ろせる位置にあります。




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 映画になってしまいますが、当時はこのような景色だったのでしょうか。





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 SPRの冒頭と最後で翻っていた星条旗(結局連想するイメージがSPRになってしまう)





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 礼拝所もあります。



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 モニュメントには作戦の概略図が掲げられていました。




 この時、ツアー客の一部のアメリカ人家族といろいろ会話。
 彼らは特に第5軍の戦没者の関係者というわけではなかったそうですが、「君は日本人だけど、ここに来てみてどう思った?」などなどと尋ねられたり。

 もちろんアメリカにとってここは対独戦の地ですが、そこにかつての交戦国である日米の観光客がいるというのも何か考えさせられるものがありました。
 「戦争なんてロクなもんじゃないネ」とアメリカ人らしく締めてこの地を後にしました。
 
 



フランス編その8 ノルマンディーの戦史跡2 オック岬

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 バスでフランス人ガイドのおばさんが、地図を片手にカーンを出て、バイユーを経由し海岸陣地へ向かう旨を説明してくれました。(このカーン・バイユー間の幹線道路はカナダ軍の制圧ポイントでもありました。)

 (フランス訛りの英語が、どことなく日本人のカタカナ英語っぽくて聞き取りやすかった笑)

 カーンもバイユーもかなり海岸に近い都市であることが分かります。(つまり艦砲射撃圏内)




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 冬だったので枯れ木になっていますが、ノルマンディー地方特有の畑の生け垣であるボカージュ(Bocage)が多く見られました。
 海岸地域のため防風林や畑の乾燥防止、薪の供給源といった様々な用途から植えられてきたものですが、戦中は防御戦闘にあたるドイツ軍がボカージュを利用した待ち伏せを行っていたとよく言われます。
 (ゲーム『PANZER FRONT』をプレイした人ならば、アンブッシュやボカージュ越しの側面射撃でだいぶお世話になったのではないでしょうか笑)

 こういうところでも「おおノルマンディーに来たんだ」と実感します。




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 ガイドさんを筆頭にぞろぞろと。

 まずはオック岬(Pointe du Hoc)にやってきました。




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 さりげなくこういうモニュメントが置かれていたりします。

 砲の形からして、フランス製K418 155mmカノン砲だと思われます。
 第一次大戦時の砲ですが、フランス降伏後ドイツ軍に鹵獲され、多くは大西洋の壁に配備されました。





 Pointeduhoc1.jpg

 ドイツ軍の陣地略図



 このフランス製重砲はオック岬にも対艦攻撃用に6門配置され、連合軍の航空偵察でもバンカーにそれらしきものが確認されたことから、アメリカ第2レンジャー大隊による攻略が企図されました。

 オック岬はオマハビーチから3マイル西にあり、またオマハとユタの中間地点に位置する場所で、これらの重砲が両海岸を狙えることも連合軍の重大な懸案事項でした。




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 バンカー跡が見えてきます。





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 爆撃のクレーターが今も残っています。
 これらのクレーターは、崖をよじ登ってきたレンジャー隊員が身を隠す場所にもなりました。





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 当時の爆撃の模様。
 かなりの密度で爆撃されたことが分かります。




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 オック岬を爆撃するA-20ハヴォック
 ただし爆撃そのものは4月25日にA-20が、5月には2回に分けてB-26によって、また6月にはD-dayの2日前からA-20、B-17、モスキート、ランカスター、B-26などによって連日爆撃が行われました。

 さらに海からも戦艦テキサス以下、米英軍の艦船による艦砲射撃が行われました。




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 激しい砲爆撃のためでしょうか、半壊したバンカーが多かったです。






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 退避壕か連絡路があったのでしょうか。
 これも一部原型をとどめている状態でした。






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 155mmカノン砲用のバンカー。

 当時レンジャーが多数の犠牲を出しながら崖をよじ登ってみると、バンカーにあるはずの155mm砲は姿を消していました。

 上陸前から頻繁に爆撃されたこともあり、155mmカノン砲も陣地を転換していたのでした。
 (オック岬制圧から2時間後、第2レンジャーの斥候が岬から1マイル離れた場所に偽装されて放置されている5門の155mmカノン砲を発見し、これを確保しています。)





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 カノン砲用のバンカーには、今ではこのような展望台が設けられています。






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 最優先攻撃目標のバンカーだったと思われますが、ほとんどは原型をとどめていました。





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 連絡壕は一部崩落もしくは埋まっておりました。






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 おそらく上の陣地略図でいうと西側の対空陣地。
 連絡壕とつながっていた場所のひとつです。

 オック岬には2門の20mmFlak30高射機関砲が配備されていたようなので、もともとは機関砲が据えられていたのだと思われます。



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 こちらは対空陣地とは別の機関銃陣地用のバンカー



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 固有のマウントなどはなかったので、可搬型のマウントもしくは三脚などを用いたのでしょうか。
 全周旋回できることから、20mm機関砲と共に対空戦闘にも使われたのかもしれません。



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 水が貯まっており排水設備に見えますが、手榴弾溝としての機能もあったのかもしれません。







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海岸地帯より西を。
切り立った崖が続いていますが、奥の崖のさらに反対側がユタ・ビーチの方向になります。







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 オック岬の最先端になります。
 特徴的な形の岩は今も現存しています。

 第2レンジャーがこの30mもある高さの崖をよじ登るにあたっては、縄梯子やロケット発射式のカギ付きロープが使われましたが、ロンドン市消防局から拝借した伸縮式のはしごも投入されました。







 映画"The Longest Day"(『史上最大の作戦』)でも登場した場所です。




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 岬の先端にあるバンカーには記念碑が展示され、内部見学ができるように整備されています。




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 錨の形をした記念碑にはレンジャーの功績を称える碑文が刻まれています。 




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 バンカーを外側から。

 映画ではバンカー内部から射撃してくるドイツ兵に対して、レンジャーが手榴弾で応戦するシーンが描かれていました。




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 バンカーの入り口を守る銃眼

 CoD2をプレイした人ならば、これに苦しめられた人も多いのでは。
 既視感を感じると思ったら、やはりCoD2のオック岬のミッションで最後に攻略する陣地だったからかもしれません。(内部構造はゲームと若干異なってましたが、CoD2での再現はそこそこ忠実だったように思います。)






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 バンカー内部にもさらに銃眼が設けられています。

 ただ、これが使われる状況になってしまうと、陣地としてはもはや持ちこたえられそうにない状況だとは思いました。
 (入り口を固めてもバンカーの開口部から手榴弾や火炎放射で攻撃されてしまうと・・・)






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 銃眼の銃座側にまわってみると、制圧された時のものかは分かりませんが、内壁に榴弾片の跡のようなものが多数残されていました。





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 内部はライトアップされています。







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 制圧時のものかは分かりませんが天井の木板も焼け焦げています。




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 バンカーより英仏海峡を臨む。

 時期は冬でしたので季節感は異なりますが、上陸当時のような若干荒れた海面でした。
 ここから連合軍の艦艇が迫ってくるのを目にしたドイツ兵はどのような心境だったのでしょうか。









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つづく

フランス編その7 ノルマンディーの戦史跡1 カーン平和記念館

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 翌朝、朝6時前にホテルを出発し、ツアーの集合場所であった現地旅行会社の建物へ。
 ツアー客は自分を合わせても10人で、みなアメリカ人。唯一の日本人というか東洋人は自分だけだったのですが、むしろアウェーさを楽しみながら出発。(極力母国文化や母国語から離れて過ごしてみる、というのが海外ひとり旅の醍醐味ですからね。)


 この日は事前に申し込んでいたツアーのバスで夜明け前のパリを出発し、目的地を目指しました。




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 都会のパリから北へ高速道路で2時間ほどでしょうか。
 だんだん車窓から見える景色も、牧草地帯の広がる開けた場所になってきます。




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 最初の立ち寄り先であるカーン平和記念館へ。
 まずはカーン、フランス北西部ノルマンディーの中心都市にやってきたのです。



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 今回のツアーは「ノルマンディー上陸作戦の戦史跡」を回るもので、かねてから人生で一度は訪れてみたいと思っていた場所を旅行のクライマックスとして組みこんでみました。



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 エントランスにはノルマンディーでもドイツ軍から恐れられたホーカー・タイフーンが掲げられておりました。



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 4門もの20ミリ機関砲と対地ロケット弾は、ドイツ軍の兵站線や地上部隊に対して大損害を与え、その反撃を頓挫させたり撤退を阻害することに貢献しました。(ただしロケット弾の命中精度の低さから装甲車両への効果は限定的だったようですが。)





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 状態良く展示されているジープ。
 ノルマンディー上陸時には、撤退するドイツ軍よりも、連合軍の砲爆撃が現地のインフラを破壊してしまった面もあったので、海岸に揚陸した物資はトラックやジープを総動員して内陸部の部隊に届けられました。




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 展示内容はおおむね第一次世界大戦から始まります。




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 ヴェルサイユ体制とそれに基づくドイツに対する懲罰的な外交上の枠組みが、ファシズムを生む土壌になったというスタンスのようです。

 フランスの歴史において、長年対立してきたドイツとの関係史というものは欠かすことのできないテーマであり、また戦後にその長年の対立を互いに克服しようとした仏独両国の試みは、欧州石炭鉄鋼共同体→EC→EUと欧州統合の流れにつながる契機にもなりました。


 このように、ノルマンディー上陸作戦だけではなく、その前提にある第二次世界大戦について広く扱っています。




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 開戦後、フランスはすぐにドイツに屈したイメージで語られることが多いですが、遅ればせながらフランスも苦慮しつつ戦時体制の構築に勤しんでいた面がうかがえました。




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 展示されているのは当時のフランス軍装備
 壁に立てかけられた軽機関銃は国産のFM mle 1924/29


 展示内容として面白かったのは「なぜフランスはドイツ軍に敗れたのか」という内容の展示が多かったことです。
 塹壕戦の遺産であるマジノ線の構築、無線や機動戦術の軽視、硬直化した政府や軍司令部の稚拙な戦争指導など、自国の対応のまずさも目をそらさず取り上げていたのは興味深かったです。



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 また自由フランス軍に欠かせなかったものが、中東やアフリカの植民地兵の存在でした。
 2006年には自由フランス軍の植民地兵をテーマにした映画『デイズ・オブ・グローリー』が話題を呼ぶなど、フランス国内でも植民地兵の功績について再評価する動きがあったようです。

 移民問題を抱えることで有名なフランスではありますが、古くから多くの移民を受け入れてきたのも、兵力不足や労働人口の不足を補う国策的な理由があったことを考えると、単純な移民批判に終始できる問題ではないことが想像できます。












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 自由フランス軍は北アフリカでもドイツ軍と交戦していたこともあってか、DAKの装備も。




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 MG34と柄付手榴弾




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 ゲッベルスによる総力戦演説の映像と、ドイツが国内にプロパガンダを浸透させる目的で普及させた国民ラジオが展示されていました。



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 並行して極東の様子も



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 こんなものも



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 イタリアの有名なプロパガンダポスターも




 第二次世界大戦全般についての展示が終わると、いよいよD-dayに関する展示へ繋がっていきます。


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 大西洋の壁に築かれたトーチカの例

 トート機関によって捕虜や占領地民を動員して建設されました。




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 この陣地は有名な写真にもある海軍のトーチカで、水雷艇用の15センチTbtsKC/36カノン砲を地上に転用したものです。(いわゆるドイツにおける「水雷艇」(魚雷艇)は、米軍のPTボートに相当する高速魚雷艇のSボートとは異なるジャンルのもので、小型駆逐艦ともいうべきサイズのものでした。)

 ドイツ海軍が建設した沿岸陣地の多くは、沖合の敵艦船を狙うことを主目的としており、高い角度で落下してくる敵弾や空爆を警戒して、このように天蓋も分厚いコンクリートで囲ったものや、戦艦の主砲塔をそのまま移植したものが多いです。(ただし写真にあったこの陣地は連合軍の事前爆撃で破壊されてしまいました。)

 (一方でドイツ陸軍の建設した陣地は、上陸直後の敵地上部隊を主目標としていたので、オープントップ式の陣地が多い傾向にありました。)

 こうした新型の艦載砲を移植した模範的な陣地ものは最上のもので、広大な海岸線をカバーするためには、占領国から鹵獲して使い道の無い砲、旧式化して二線級になっていたもの、旧式戦艦から取り外して保管していた艦載砲、試作兵器など多種多様な砲が据え付けられ、それらに合わせた砲弾や部品の調達に補給担当者は大いに苦労したといわれます。

 


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 一般的な北が上になる地図に見慣れているので、イギリス側を手前にして上陸目標を上に配置する見せ方はとても斬新でした。

 イギリスのどこから、どの部隊が、どこを目指したのかがひと目に分かる展示でした。

(日本の周辺地図の中にも、中国やロシアから見た視点で地図の向きを変えて、防波堤としての日本像を浮かび上がらせる図がよくありますよね。)




 展示されていた装備品をいくつか


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 王立砲兵連隊の将校のようです。
 置かれていたリボルバーはエンフィールドのダブルアクション専用モデルであったNo.2 Mk1*でした。




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 上陸した英軍の装備例
 ノルマンディー上陸作戦といえばオマハ・ビーチなどの米軍にアサルトベストが支給されていたことで有名ですが、英軍とカナダ軍の一部にも似たようなアサルトジャーキンが支給されていました。(もともと43年のイタリアでコマンド部隊が使っていたようです。)

 米兵の多くは重くてかさばるアサルトベストを嫌って脱ぎ捨ててしまったと言われますが、英兵も同様に邪魔になるアサルトジャーキンを脱ぎ捨ててしまうことが多かったようです。




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 こちらは衛生兵の所持していたもの。
 多種多様な薬品や包帯を携行したのが分かります。



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 パンツァーシュレックとそのロケット弾、ZF41の装着されたKar98k
 手前にあるのは小銃用のオイル缶



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 大西洋の壁にも多数埋設された跳躍地雷のSミーネ(Sマイン)





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カーンの攻撃を担当するのはイギリス・カナダ軍でしたが、ドイツ軍の第21装甲師団の反撃に対する迎撃のため一時進撃を停止したこともあり、初端から計画通り解放に至りませんでした。

 県庁所在地にして交通の要所であるカーンをめぐっては、ドイツ軍の装甲教導師団およびSS第101重戦車大隊の一部が布陣して連合軍と激戦が繰り広げられ、有名なミハエル・ヴィットマンの活躍したヴィレル・ボカージュの戦いもカーン攻防戦に関連して発生しています。
 また同じくカーンに配置されていた第12SS装甲師団ヒトラー・ユーゲントが連合軍の想像以上に激しく抵抗するなど、7月になっても攻め落とせない状況が続きました。

 業を煮やした連合軍は大規模な爆撃と艦砲射撃を行い、7月21日になってようやくカーンを解放することができました。




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 しかしその「解放」のための戦いによって市街地にも爆撃や艦砲射撃による被害が発生しており、カーンは廃墟になってしまいます。
 これらは当時の被害を物語る品々だそうです。

 ドイツ軍に占領され、連合軍による攻撃目標にされたカーンの人々の複雑な心境が読み取れました。
 (カーンに限らず、連合軍の砲爆撃によるフランス市民の死傷者は多く、ノルマンディー戦でドイツ軍が野戦病院のベッドを増設したところ、ほとんどがフランス人で埋まってしまった事例も)



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 カーンを突破した北部のイギリス・カナダ軍と、南部から回り込んだ米軍によって8月21日には5万のドイツ軍を包囲する、いわゆるファレーズ・ポケットが形成されます。
 これによってドイツ軍は潰走し、4日後にはパリ解放に至ります。




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 昼食は博物館内のレストランで地元の料理とワインをいただきました。
 (ツアー客のアメリカ人に、なんで日本人がこのツアーにとあれこれ尋ねられながらの昼食となりました笑)



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