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歐慶祥

Author:歐慶祥
(中文名は台湾の友人に名付けてもらいました)



Models:WW2を中心にAFV中心ですが、ストックがたくさんある積みモデラー。なんだかんだでドイツ戦車が多いです。最近は英軍戦車と歩兵の情景も作りたいと思案中。 艦船や航空機にもちょっかいだしてます。



Military:ちょくちょく軍装品集めてましたが、黒歴史化して放置したり処分したりで退却中。 たまにWW2中華民国軍をいろいろ(余波で英軍、現用台湾も)調べてはいます。




記事は筆者の知識不足もあり、随時加筆修正しています。お気づきの点ありましたら、指摘して下さると幸いです。

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フランス編その7 ノルマンディーの戦史跡1 カーン平和記念館

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 翌朝、朝6時前にホテルを出発し、ツアーの集合場所であった現地旅行会社の建物へ。
 ツアー客は自分を合わせても10人で、みなアメリカ人。唯一の日本人というか東洋人は自分だけだったのですが、むしろアウェーさを楽しみながら出発。(極力母国文化や母国語から離れて過ごしてみる、というのが海外ひとり旅の醍醐味ですからね。)


 この日は事前に申し込んでいたツアーのバスで夜明け前のパリを出発し、目的地を目指しました。




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 都会のパリから北へ高速道路で2時間ほどでしょうか。
 だんだん車窓から見える景色も、牧草地帯の広がる開けた場所になってきます。




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 最初の立ち寄り先であるカーン平和記念館へ。
 まずはカーン、フランス北西部ノルマンディーの中心都市にやってきたのです。



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 今回のツアーは「ノルマンディー上陸作戦の戦史跡」を回るもので、かねてから人生で一度は訪れてみたいと思っていた場所を旅行のクライマックスとして組みこんでみました。



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 エントランスにはノルマンディーでもドイツ軍から恐れられたホーカー・タイフーンが掲げられておりました。



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 4門もの20ミリ機関砲と対地ロケット弾は、ドイツ軍の兵站線や地上部隊に対して大損害を与え、その反撃を頓挫させたり撤退を阻害することに貢献しました。(ただしロケット弾の命中精度の低さから装甲車両への効果は限定的だったようですが。)





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 状態良く展示されているジープ。
 ノルマンディー上陸時には、撤退するドイツ軍よりも、連合軍の砲爆撃が現地のインフラを破壊してしまった面もあったので、海岸に揚陸した物資はトラックやジープを総動員して内陸部の部隊に届けられました。




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 展示内容はおおむね第一次世界大戦から始まります。




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 ヴェルサイユ体制とそれに基づくドイツに対する懲罰的な外交上の枠組みが、ファシズムを生む土壌になったというスタンスのようです。

 フランスの歴史において、長年対立してきたドイツとの関係史というものは欠かすことのできないテーマであり、また戦後にその長年の対立を互いに克服しようとした仏独両国の試みは、欧州石炭鉄鋼共同体→EC→EUと欧州統合の流れにつながる契機にもなりました。


 このように、ノルマンディー上陸作戦だけではなく、その前提にある第二次世界大戦について広く扱っています。




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 開戦後、フランスはすぐにドイツに屈したイメージで語られることが多いですが、遅ればせながらフランスも苦慮しつつ戦時体制の構築に勤しんでいた面がうかがえました。




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 展示されているのは当時のフランス軍装備
 壁に立てかけられた軽機関銃は国産のFM mle 1924/29


 展示内容として面白かったのは「なぜフランスはドイツ軍に敗れたのか」という内容の展示が多かったことです。
 塹壕戦の遺産であるマジノ線の構築、無線や機動戦術の軽視、硬直化した政府や軍司令部の稚拙な戦争指導など、自国の対応のまずさも目をそらさず取り上げていたのは興味深かったです。



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 また自由フランス軍に欠かせなかったものが、中東やアフリカの植民地兵の存在でした。
 2006年には自由フランス軍の植民地兵をテーマにした映画『デイズ・オブ・グローリー』が話題を呼ぶなど、フランス国内でも植民地兵の功績について再評価する動きがあったようです。

 移民問題を抱えることで有名なフランスではありますが、古くから多くの移民を受け入れてきたのも、兵力不足や労働人口の不足を補う国策的な理由があったことを考えると、単純な移民批判に終始できる問題ではないことが想像できます。












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 自由フランス軍は北アフリカでもドイツ軍と交戦していたこともあってか、DAKの装備も。




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 MG34と柄付手榴弾




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 ゲッベルスによる総力戦演説の映像と、ドイツが国内にプロパガンダを浸透させる目的で普及させた国民ラジオが展示されていました。



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 並行して極東の様子も



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 こんなものも



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 イタリアの有名なプロパガンダポスターも




 第二次世界大戦全般についての展示が終わると、いよいよD-dayに関する展示へ繋がっていきます。


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 大西洋の壁に築かれたトーチカの例

 トート機関によって捕虜や占領地民を動員して建設されました。




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 この陣地は有名な写真にもある海軍のトーチカで、水雷艇用の15センチTbtsKC/36カノン砲を地上に転用したものです。(いわゆるドイツにおける「水雷艇」(魚雷艇)は、米軍のPTボートに相当する高速魚雷艇のSボートとは異なるジャンルのもので、小型駆逐艦ともいうべきサイズのものでした。)

 ドイツ海軍が建設した沿岸陣地の多くは、沖合の敵艦船を狙うことを主目的としており、高い角度で落下してくる敵弾や空爆を警戒して、このように天蓋も分厚いコンクリートで囲ったものや、戦艦の主砲塔をそのまま移植したものが多いです。(ただし写真にあったこの陣地は連合軍の事前爆撃で破壊されてしまいました。)

 (一方でドイツ陸軍の建設した陣地は、上陸直後の敵地上部隊を主目標としていたので、オープントップ式の陣地が多い傾向にありました。)

 こうした新型の艦載砲を移植した模範的な陣地ものは最上のもので、広大な海岸線をカバーするためには、占領国から鹵獲して使い道の無い砲、旧式化して二線級になっていたもの、旧式戦艦から取り外して保管していた艦載砲、試作兵器など多種多様な砲が据え付けられ、それらに合わせた砲弾や部品の調達に補給担当者は大いに苦労したといわれます。

 


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 一般的な北が上になる地図に見慣れているので、イギリス側を手前にして上陸目標を上に配置する見せ方はとても斬新でした。

 イギリスのどこから、どの部隊が、どこを目指したのかがひと目に分かる展示でした。

(日本の周辺地図の中にも、中国やロシアから見た視点で地図の向きを変えて、防波堤としての日本像を浮かび上がらせる図がよくありますよね。)




 展示されていた装備品をいくつか


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 王立砲兵連隊の将校のようです。
 置かれていたリボルバーはエンフィールドのダブルアクション専用モデルであったNo.2 Mk1*でした。




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 上陸した英軍の装備例
 ノルマンディー上陸作戦といえばオマハ・ビーチなどの米軍にアサルトベストが支給されていたことで有名ですが、英軍とカナダ軍の一部にも似たようなアサルトジャーキンが支給されていました。(もともと43年のイタリアでコマンド部隊が使っていたようです。)

 米兵の多くは重くてかさばるアサルトベストを嫌って脱ぎ捨ててしまったと言われますが、英兵も同様に邪魔になるアサルトジャーキンを脱ぎ捨ててしまうことが多かったようです。




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 こちらは衛生兵の所持していたもの。
 多種多様な薬品や包帯を携行したのが分かります。



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 パンツァーシュレックとそのロケット弾、ZF41の装着されたKar98k
 手前にあるのは小銃用のオイル缶



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 大西洋の壁にも多数埋設された跳躍地雷のSミーネ(Sマイン)





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カーンの攻撃を担当するのはイギリス・カナダ軍でしたが、ドイツ軍の第21装甲師団の反撃に対する迎撃のため一時進撃を停止したこともあり、初端から計画通り解放に至りませんでした。

 県庁所在地にして交通の要所であるカーンをめぐっては、ドイツ軍の装甲教導師団およびSS第101重戦車大隊の一部が布陣して連合軍と激戦が繰り広げられ、有名なミハエル・ヴィットマンの活躍したヴィレル・ボカージュの戦いもカーン攻防戦に関連して発生しています。
 また同じくカーンに配置されていた第12SS装甲師団ヒトラー・ユーゲントが連合軍の想像以上に激しく抵抗するなど、7月になっても攻め落とせない状況が続きました。

 業を煮やした連合軍は大規模な爆撃と艦砲射撃を行い、7月21日になってようやくカーンを解放することができました。




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 しかしその「解放」のための戦いによって市街地にも爆撃や艦砲射撃による被害が発生しており、カーンは廃墟になってしまいます。
 これらは当時の被害を物語る品々だそうです。

 ドイツ軍に占領され、連合軍による攻撃目標にされたカーンの人々の複雑な心境が読み取れました。
 (カーンに限らず、連合軍の砲爆撃によるフランス市民の死傷者は多く、ノルマンディー戦でドイツ軍が野戦病院のベッドを増設したところ、ほとんどがフランス人で埋まってしまった事例も)



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 カーンを突破した北部のイギリス・カナダ軍と、南部から回り込んだ米軍によって8月21日には5万のドイツ軍を包囲する、いわゆるファレーズ・ポケットが形成されます。
 これによってドイツ軍は潰走し、4日後にはパリ解放に至ります。




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 昼食は博物館内のレストランで地元の料理とワインをいただきました。
 (ツアー客のアメリカ人に、なんで日本人がこのツアーにとあれこれ尋ねられながらの昼食となりました笑)



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